専業主婦のおきらく日記

岩手県在住の専業主婦です。主にグルメや観光情報をお届けします。

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終戦記念日

いつもグルメや観光などの情報を中心にお届けしているこのブログですが、終戦記念日を迎えてどうしてもお伝えしたいことがあったので載せようと思います。
私の一緒に住んでいた祖父が第二次世界大戦終了後にシベリアに強制抑留させられました。祖父はこのインタビューをして丁度1年後に亡くなりましたが、毎年終戦記念日には武道館での式典を見ながら戦争の話をしてくれました。祖母も戦時中満州にいて、戦局が危なくなってきて何とか帰国したと話していました。いつか祖母の話をまとめられたらとおもいますが、とりあえず祖父の話を聞いてもらえたら嬉しいです。このレポートは私が大学の授業で提出したもので、原文をそのまま載せす。長文でごめんなさい。

<はじめに>
私の祖父は今年で83歳になる。祖父は第二次世界大戦時満州におり、ソ連との国境警備にあたっていた。そして終戦後、シベリアへ強制連行された。私は幼い頃から祖父に強制抑留時代の話を聞いて育った。何故、強制抑留が行われ、日本人は死ななければならなかったのか、そういった疑問を持ち、ロシアについて学んでみたいと思ったのがこの授業をとったきっかけだった。
<日ソ開戦からシベリア強制抑留まで>
第二次世界大戦のさなかである1945年8月9日夜に、ソ連軍による満州への一斉攻撃が開始された。まず、満州の東と西からザバイカル方面兵団、第一極東軍、第二極東軍が航空隊や太平洋艦隊の援護のもと、戦闘を開始した。対する日本は三十一歩兵師団、九歩兵旅団、二戦車旅団、神風特攻隊と二航空軍の約120万名の兵士がいたが、ソ連軍の猛攻撃により戦闘開始からわずか9日後の8月18日にはソ連軍に対して降伏した。この時日本軍はソ連軍が通過困難なタイガの中を進軍するとは予想しておらず、十分な作戦を立てていないうちに攻撃にあったということであった。また、この時の戦闘で約4万人が死亡したといわれている。
降伏後、日本兵60万人がソ連の捕虜となり、強制収容所へと送られた。当時ソ連には日本の軍事捕虜を扱う収容所管理局が71あり、更に各管理局の下に多数の収容所支部があった。最も大きな収容所はイルクーツク州の「タイシェット第7収容所」もしくは「タイシェット収容所」であった。他にもイルクーツク州には約50の収容所支部があった。
<強制収容所での生活>
強制収容所では、ソ連内務人民委員部及び赤軍後方長官命令により、日本兵に対して1人1日当たりパン300g、米300g、燕麦等100g、肉50g、魚100g、油10g、野菜600g、味噌30g、砂糖15g、茶3g、塩15gを配給されるということが決定されていたが、実際の強制収容所では、ソ連人による食料の横流し等、様々な原因により、これらの基準以下の食事であった。具体例を挙げると1食あたり飯盒1杯の燕麦を3人で分け、それだけでは足らないので木の皮や草を入れ増量して食べていたそうだ。しかし、野草にあたり、体調を崩し亡くなる人もいたという。また、他にはパン150gとスープ飯盒に3分の1程度の食事だったという。抑留者達はそれだけでは足らないので、腕時計や万年筆等と黒パンを交換し、飢えをしのいだといっていた。このようにシベリアでの食事が不十分だったため、夜盲症や壊血病にかかる抑留者が続出したということであった。
抑留者達の主な日課は、起床及び点呼5時、朝食6時半、作業7時から14時、昼食14時、作業14時半から19時半、夕食19時半という日課だった。一般的な抑留者達は1日に与えられたノルマを働かないと、ノルマが達成されるまで働かされたりしていたのだが、将校達は、作業を免除されたり、起床時間が遅かったりするなど、優遇されていた。
抑留者達は建築・伐採・農場・炭坑・線路工事・道路工事・船の修理・港の建設・赤レンガ作り・船や鉄道車両からの貨物の積み下ろし作業等に従事させられた。特に船や列車からの貨物の積み下ろし作業では、夜中であっても列車が駅に入ると叩き起こされ、作業をさせられたという。また、食料は抑留者達が働いたノルマによって配給量に差があったそうだ。そのため、体調が悪くあまり働けない抑留者が十分な栄養を摂れず、翌朝には布団の中で冷たくなっているということも多々あった。また、他にも、強制労働から逃れようとして脱走し、ロシアの警備兵に射殺された抑留者や、警備兵を笑ったり、抗議しただけで射殺された抑留者もいた。また、強制収容所での暮らしに耐えきれず、自殺した抑留者もいた。
強制収容所での生活だが、住居は半地下に建てられ、板のバラックや、天幕の宿舎であった。抑留者達は狭く、寒い宿舎に閉口していた。しかし、宿舎に入れた抑留者はまだ運が良いほうで、中には天幕で就寝しなければならないものもいた。また、日本に手紙を出せるようになったのは、1946年からだった。当時は往復はがきのような「軍事捕虜用書簡」に2,3ヶ月に1回の割合で手紙を出すことを許されていた。それまで日本の家族は自分の息子は戦争で死亡したと思っていたので、非常に喜んだということだった。
<祖父の抑留生活>
ここで、私の祖父の抑留生活について書きたいと思う。祖父はソ連との国境警備を行っていたが、ソ連軍とあまり戦闘しないうちに終戦となり、終戦と同時に捕虜となった。貨物列車でコムソモリスク近郊のジベストステリ204収容所へ連行されたのだが、満州から列車に乗るまで9日間歩かされたという。祖父は1945年10月にシベリアへ強制連行され、1948年10月、ナホトカ号にて舞鶴に帰還するまで丸3年間シベリアで強制労働をさせられていた。シベリアで祖父は、階級が上だったので、4人の日本人抑留者を使い、他の抑留者が使用するノコギリ等の用具の管理と整備を任されていた。そのため、苛酷な労働はせずに済み、毎月1回行われる身体検査でも4級段階の一番上の1級だったそうだ。食事等は他の抑留者達と同じようにお粥のようなものを食べていたそうだが、倉庫の用具をロシア人や中国人に貸し、「貸したお礼に食料を持ってこい」というと食料を持ってきてくれたため、不自由しなかったと言っていた。また、戸外で労働することはなく、寒いときは倉庫の中で大きいペーチカを焚き、寒さをしのいだそうだ。住居は、以前罪人を収容していたところで、バラックのようなものだったと聞いた。冬は寒さが厳しく、寒いなと思う日はマイナス40度まで気温が下がる日もあったそうだ。また、祖父はロシアの数字の数え方など、簡単なロシア語を今でも覚えており、「倉庫の管理でいつもロシア兵と会話をし、そこから覚えた」と言っていた。他にも「食物不足と強制労働で栄養失調になり、たくさんの日本兵が死んだ。俺は運が良かったから生きて帰って来ることができた」と何回も繰り返し言っていた。
<強制収容所での死亡数とその原因>
実際、シベリアで61,855名の死亡者が出たと言う記録が残っている。ロシア側は「死亡したのは30000名ほどだ」と公表したが、抑留者達から疑問の声があがっていた。死亡原因は栄養失調・凍傷・自殺・警備員による殺害・結核・炎症・チフス等であった。これらのなかでも特に栄養失調による死亡が非常に多かった。また、ジュネーブ協定では「抑留されている軍事捕虜は、衛生関係と健康の保持が完全に保証される建物に収容されるべきである。不健康な土地にいる抑留者達は、できれば最初に、より気候の良い土地に移されるべきである」とされており、また同25条では「軍事捕虜が収容所に収容される条件は、捕虜とした国家の軍隊が同じ土地にあって使用している条件よりも、少なくとも良いものでなければならない」としている。しかし実際に抑留者たちはバラックのような粗末な住居に住み、十分な食料を与えられていなかった。抑留者達の食料が不足した原因として、収容所のロシア人監視達による食料の横領がある。ただでさえ食料が不足していたのだが、さらに横領されたりしたので、抑留者達への配給分はどんどん少なくなっていったという。ある監視員は魚の缶詰19箱・乾パン9箱・マカロニ16箱を横領の目的で隠していた。他にも抑留者の防寒着も横領され、そのために凍死者も出たということだった。また炭鉱等の強制労働は、作業中の安全基準がなく、よく作業中に落石がおき、その石の下敷きになって、何人もの抑留者が命を落としたそうである。
抑留中に死亡した人々は大きい穴の中に数名ずつ埋められた。埋められた場所に墓標等はなく、また、現在日本人墓地として残っているところは少ない。その理由として、正確な公式文書として墓地の記録がないこと、墓地の上に樹木や家などが既に建っていること、ソ連政府が死亡者数を少なく見せようとしたことなどがある。しかし、日本との国交正常化の際に、日本人墓地の整備が課題になり、現在でも墓地の整備や、遺骨の収集が行われているそうである。
<考察>
私達日本は世界で唯一戦争を放棄した。現在の憲法で定められたこの権利は、第二次世界大戦による多くの日本兵の犠牲により成り立っていると私は思う。戦争がばかげていることだということは、多くの国民が思っていることであろうと思う。しかし、今でも世界中から戦争は消えていない。軍事捕虜という問題は表面化していないが、それでもたくさんの人々が犠牲になったと思う。1993年10月にエリツィン大統領が訪日した際に、シベリア強制抑留に対して全体主義、スターリン主義時代の過ちとして謝罪した。これは長年、ロシアに対して謝罪を求めた人々の行動の表われだと思う。私達はシベリア強制抑留を通して、人間としてのモラルや、平和について考えなければならないのではないかと考えさせられた。しかし、自分なりに疑問だった強制抑留への経緯や詳しい状況を知ることができ、ロシアに対する知識がより一層深まりよかったと思う。また、今回祖父と強制抑留について色々と話を聞くことができた。今回得た知識は家族史としていつまでも残るだろうと思う。戦争等の悲惨の経験を子孫へ伝えるのも現在の私達の使命であると私は思う。

《インタビュー》
氏名 ○○ ○○(プライバシー保護のため秘密です)
生年月日 大正6年2月○日
略歴 1938.10.1 宇都宮輜重兵第14大隊入隊
1938.12 研修後、北支へ派遣
1939.10 招集解除。帰還
1941.7.15 ○○東部37部隊入隊
満州国北安省134部隊入隊
第2大隊本部にて人事係助手。下士官
1945.8 満州とソ連との国境警備に当たり、ソ連軍の捕虜となる
1945.9 シベリア、ジベストテリ第204収容所に強制抑留される
1948.10.28 ナホトカより舞鶴へ帰還
インタビュー日時 2000年12月28日

《参考文献》
『シベリアの強制抑留者達―ロシア側から見た「ラーゲリ」の虚と実―』
セルゲィ・イリイッチ・クズネツォフ著、岡田安彦訳、1999年、集英社
http://www.remus.dti.ne.jp/~froggy/siberia.html
http://www.ca.sakura.ne.jp/~masato_k/nob/nobhome.htm

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